サブカル女子には成れない

ぼくの棚で陽気なギャングとステーシーがJ-POPうたってる

へしこ

去年の秋頃「へしこ」を漬けた……のを忘れていた。夏野菜カレーを作ろう!と安売りの野菜を買い込んだが冷蔵庫に入りきらず、野菜室を整理していたら奥から新聞紙の塊が出てきた。

側面に「さんま へしこ 2017」と書かれていた。

 

へしことは北陸地方の保存食で、1か月塩漬けにした青魚(主に鯖)をさらに米麹と糠で半年から1年漬けた食べ物。

 

買えば済む話なんだけど、当時私は妙にテンションが高く、作り方を検索しまくって「塩焼きに!刺身用新秋刀魚」の半額シールつき、という鮮度と衛生に矛盾を孕んだ秋刀魚をせっせと開き、血抜きし、塩漬けにし、1リットルタッパーにて糠に漬け込んだ。

3尾くらい漬けた気がする。

思い返せば、うまくできたらクックパッドに載せようと過程を写真を撮った気がするのだが、iPhoneの中にそのような画像は見当たらない。幻の記憶だったらしい。

 

あと3か月待ってから開けようか、もう開けてしまおうか。なかなか悩ましい。

 

2015年9月、水

学生時代に利用していた図書館のWebページを見ていた。ふたたび貸し出し対象地域に引っ越したので、昔そこで読んだ大槻ケンヂの『ステーシー』をもっかい紙で読みたくて(電子書籍は持ってる)、貸し出し可能か確認したかったからだ。

 

2015年9月10日

この日付を見て、ピンと来る人はどれくらいいるんだろう。

2010年代、茨城県は「忘れられた被災地」と呼ばれた経験が2度ある。

1度目は東日本大震災。当初被災地指定すらされなかった。

宮城県沖で発生したM9.0の超大規模地震から約30分後、茨城県沖でも大地震が起きたのを県外の人は知っているんだろうか? と未だに思うときがある。

 

2度目は、今。まさに今。

2015年9月10日。

この日、茨城県常総市(旧石下町)をとおる鬼怒川が決壊した。

電柱近くに瓦礫を積み救助をまっていた男性や、流された家がぶつかっても壊れなかったヘーベルハウスと聞けば、覚えているか思い出せる人はいるかもしれない。

翌早朝、その水は同市内の旧水海道市にまで流れた。図書館もこのとき被災し、図書やCD類3万点が損壊した。

だから行く前に貸し出し可能か確認したかったのです。ない、という現実をあまり生々しく感じたくない。

結果は、リストにすらなかった。エッセイや音源を含めてもソロアルバムの『I STAND HERE FOR YOU』しかなかった。
そういやオーケンの本は、棚の一番下の段だったかもしれない。それか書庫にあったのかしら。
いや、整理図書無料配布の時『ゴスロリ幻想劇場』があったから、もしかしたら誰かが大事に持ってるのかなあ……そうだといいなあ。

 

 

当時、友人や親戚が被災した。水が引いてから、飲料水とお見舞いを持参してまわった。裏道を知っていたので、通行止めや通行規制とは無縁で行けた。

壁や塀や庭木についた線、水たまり、通行止め、ヘドロのようなにおい、ポンプ車、舞い上がる乾いた汚泥。見慣れた風景の変わりように、言葉がでなかった。愕然だとか茫然だとかも違う。切なさ、悲しさ、恐怖。いろんなものが綯い交ぜになって涙すらでなかった。これを茫然っつーんだと言われたら困るけど。

被災者が行き交う道を、取材クルーの腕章をつけた人たちがニヤニヤしながらチンタラ歩いていた。片付け中の被災者に「なにしてるんですか?」と問うた記者がいた。

茨城県民は短気と言われているが、腹を立てない方がおかしいんじゃなかろうか。

 

けれど、常総市はすぐに「忘れられた被災地」になった。テレビは連日、後手後手にまわった市長に対する批判や土手を削ってでのソーラーパネル設置の是非と市長批判、被災ゴミ問題を報道していた。

そりゃ見る側は呆れるだろ。

後手後手対応についてはよくわかる。避難指示は遅かった。

ソーラーについては、鬼怒川は国土交通省の管轄であって市長に最終決定権はないと思う。

日が浅いうちに被災者の傷を抉るような取材が続きびっくりした。ある記者は暗に「ゴミを家に置いたまま暮らせないのか?」ともとれる発言をしていた。9月とはいえ汗ばむ気温が続く中、汚物を巻き込んだ泥水に濡れた畳や木製家具がどうなるか、当事者以外にはわからないのだろうか。

いったいなんなのだと思った被災者はたくさんいた。わたしは知っている。昔、マスコミ関係の客員教授が教えてくれた。

「人がたくさん死んだ災害と」と「人がたいして死ななかった災害」の差なのだそうだ。

 

2017年11月末、先の水害における公的住居の無償提供が終わった。避難先から戻った人は7割だそうだ。3割は、そのまま避難先で暮らすのか、金銭面新築ができずやむを得ず帰宅できないのかわからない。

関連死もあった。全壊ではなかったために修復で終えたお宅の中には、床下の除湿が不充分だったのかカビが生えてしまう家もあるらしい。

 

茨城は地味で知名度が低く、まるで自意識や感情がないもののように扱われがちな県だと思う。

というより、他県の水害であのような報道のされ方を見たことがなく戸惑った。茨城空港の時然り、国民の皆様は茨城をスケープゴートにしたいのではなかろうか。

なぜ災害に踏まれた被災地を蹴り、国にどんな思惑があったにせよ交通の便が悪い地域に空港ができると万々歳だったところに水を差したのか教えてほしい。

ドグラ・マグラは通る道なのか

大学受験勉強を開始したころ、約20年前(この受験勉強は結局無駄になった、いつか書くかもしれない)。カセットテープからMDに変わり、ポケットベルのために公衆電話に長蛇の列を作っていた女子高生がPHSや携帯電話を手にしはじめたあたりだと思う。『めちゃイケ』でヨモギダくんが目立ちたがりな素人の星になり、役目を終えようとしていたルーズソックスは広げると股下より長く、携帯電話はてのひらより小さいバー型でアンテナがあった。
街中で携帯電話を持った手をゆらゆらさせ電波を探す人たちがいた。アンテナを髪の毛で擦ると電波がよくなる! というのは嘘だったと思ってる。

わたしは20cmくらいの、手足に針金が入ったピンクパンサーの人形を携帯電話にぶら下げており、先生方に「はずせとは言わないけど、職員室へ来るときは置いてきなさい」と注意されていた。置き忘れ、参考書片手に先生をたずねると、針金を駆使して彼のスリムな手足をごねごねにされた。それだけで許された。
シマシマボーダーの靴下も真っ赤なカバンもファー付きのコートも5センチのヒールも、校則違反だったらしいがルーズソックスとミニスカートに紛れてか見つかったことがない。
わたしはどちらかというと勉強熱心で、なのに学内試験は中の上程度。文系クラスなのに数学と物理が得意で、英語が総合点を下げていた。勉学で注目されるのは全国模試と作文や小論文のみ。目立たず大人しく毒も灰汁もなく、教師の視界にほとんど入らない生徒だった。校則を知らなかったので悪気がなく、コソコソもしていなかったせいかもしれない。

特に仲のいい人はいなかったけれど、ぼっちではなかった。グループを作ったつもりはないが、校外での活動に重きを置いている人が自然と集まっていた気がする。
高校生のぢょしグループってやつは(わたしの周りだけかもしれんが)、例えば校内彼氏ができた人がだいたい欠ける。欠けた部分にスルリと誰かが入り込み、彼氏と別れてスッと戻るやつがいた。永遠にいなくなったやつもいる。
結束力が弱く、協調性もあまりなく、なんとなくガッコでひとりじゃなあ……という空気の集まり。共通していたのは、みんなカラオケが好き。歌うジャンルはバラバラだった。
部活をしてなかったので帰宅はだいたいひとりだった。気楽で、気楽すぎて、月に1・2回レンタルビデオ屋(VHS!)に寄り、CDを借りた。懐かしいものから全然知らないバンド、存在は知っていたけど聞いたことがなかったミュージシャン。
図書館でもCDを借りていた。突然段ボールあぶらだこINUじゃがたら友部正人・たま・筋肉少女帯高田渡――司書の趣味かもしれない。
なにを聞いていたか忘れてしまったくらいたくさん借りた。演劇で使うよな効果音CDも聞いた。水の効果音集が好きだった。川のせせらぎ、水中遊泳を思わせるポコ……ポコ……と空気の揺れる音、ゆらぎを感じてふわふわしていれば突然の水洗トイレを流す音。
洋楽は聞かなかった。英語はちょっと……。

図書館の興味をひくCDをほとんど聞いてしまったころ、そういえばしばらく読書してないなとレンタルビデオ屋の正面にあった大型商業施設の本屋へ行った。文庫が欲しかった。人もまばらな店内で棚を眺めていると、平積みの中、ある表紙が目についた。
ヘロヘロのタッチ。アンニュイな表情。レトロ。女性。下半身に焼きのり(とわたしは呼んでるキンカクシの女性版)。一言で下品。目につかないわけがない。未成年が制服で手に取っていいものかちょっと悩んだ。
角川か、なら大丈夫かしら。上下巻あるらしい。
そうっと手に取る。パラパラ見た。
なるほど意味が分からない。

ドグラ・マグラ
アングラやサブカルにニョッコイ顔を出したことがある人なら、知らない人はいないんじゃなかろうか。当時のわたしは知らなかった。インターネットが一部にしか普及してない時代。アングラという言葉も知らなかった。
親の影響。完全に、親の影響。
両親は「普通」をたいへん好んでいて、それは団塊世代の中でも特にクソな部類が言う「苦学生的普通」であり、高校生は漫画を読まないし友達と遊ばないしおしゃれもしないし勉強とアルバイトと家のお手伝いのために生きるものだという思い返せば理不尽な「普通」だったのだけれど、わたしは「その普通から外れること」に生命の危機を意識するほど恐れていて、しかしエログロが好きだった。大好きだった。
つまり買った。『ドグラ・マグラ』買った。
まず上記の理由により表紙をコンビニで捨てブックカバーをつけた。表紙買いなのに。

帰宅して夕食を作り、洗濯や掃除をし、体の不自由な母の介助をしつつ風呂に入り、勉強をし、寝る時間は12時過ぎる。
諸事情により自由空間はロフトベッドの中だけだったので、布団をかぶり、小学生が工作で作るような乾電池式の豆電球をつまむ。そのほんの小さな光で『ドグラ・マグラ』を開いた。
豆電球をページに押し当てれば、存外明るい。指先は熱くなる。
よく目が悪くならなかったもんだと思う。 当時、借りた漫画や本を読むときはコレか常夜灯だった。今でもたまに常夜灯で読書するが、視力は1.5あり乱視もない。

さて『ドグラ・マグラ』は、巻頭歌からはじまる。

胎児よ
胎児よ
何故踊る
母親の心がわかって
おそろしいのか

意味がわからない。だがすごい吸引力だった。なんだかよくわからないがぎゅいーんと吸い込まれ、THE BOOMの『子供らに花束を』の歌詞を思い出し、ふむふむと読み進めてみれば、吸引と同じ力で弾かれた。
読みにくい。えっらい読みにくい。「久しぶりに読書を」なんてカッコつけたことを考えた自分がアホに思えた。パラパラめくった時の「なるほど意味が分からない」という感想を信じればよかった。
気づいてしまったんだ。
そういやまともに読んでんの太宰治原田宗典大槻ケンヂくらいだったわ。
そして思い出した。
そもそもそんなに読書好きじゃねえや。
閉じた。しずかーに枕元に置いた。ポータブルCDプレイヤーの再生ボタンを押す。なにいれてたっけ――CDの回る音、1曲目を待つ。
流れたのはCOCCO。『クムイウタ』だった。

ガラケーからスマホに変えたのが5年前。早速インストールした青空文庫は愛用アプリのひとつ。
ドグラ・マグラ』もすぐにダウンロードしたと思う。はっきりとは覚えてないけど。
高校生だったわたしは、三十路って想像よりおとなじゃねえな! と思っていたわたしは、もうすぐアラフォー。
ドグラ・マグラ』は、未だに読了できていない。道が険しすぎて、入り口でずっとうろうろしている。
誰かあの、内容教えてください。わかりやすく。