サブカル女子には成れない

ぼくの棚で陽気なギャングとステーシーがJ-POPうたってる

2015年9月、水

学生時代に利用していた図書館のWebページを見ていた。ふたたび貸し出し対象地域に引っ越したので、昔そこで読んだ大槻ケンヂの『ステーシー』をもっかい紙で読みたくて(電子書籍は持ってる)、貸し出し可能か確認したかったからだ。

 

2015年9月10日

この日付を見て、ピンと来る人はどれくらいいるんだろう。

2010年代、茨城県は「忘れられた被災地」と呼ばれた経験が2度ある。

1度目は東日本大震災。当初被災地指定すらされなかった。

宮城県沖で発生したM9.0の超大規模地震から約30分後、茨城県沖でも大地震が起きたのを県外の人は知っているんだろうか? と未だに思うときがある。

 

2度目は、今。まさに今。

2015年9月10日。

この日、茨城県常総市(旧石下町)をとおる鬼怒川が決壊した。

電柱近くに瓦礫を積み救助をまっていた男性や、流された家がぶつかっても壊れなかったヘーベルハウスと聞けば、覚えているか思い出せる人はいるかもしれない。

翌早朝、その水は同市内の旧水海道市にまで流れた。図書館もこのとき被災し、図書やCD類3万点が損壊した。

だから行く前に貸し出し可能か確認したかったのです。ない、という現実をあまり生々しく感じたくない。

結果は、リストにすらなかった。エッセイや音源を含めてもソロアルバムの『I STAND HERE FOR YOU』しかなかった。
そういやオーケンの本は、棚の一番下の段だったかもしれない。それか書庫にあったのかしら。
いや、整理図書無料配布の時『ゴスロリ幻想劇場』があったから、もしかしたら誰かが大事に持ってるのかなあ……そうだといいなあ。

 

 

当時、友人や親戚が被災した。水が引いてから、飲料水とお見舞いを持参してまわった。裏道を知っていたので、通行止めや通行規制とは無縁で行けた。

壁や塀や庭木についた線、水たまり、通行止め、ヘドロのようなにおい、ポンプ車、舞い上がる乾いた汚泥。見慣れた風景の変わりように、言葉がでなかった。愕然だとか茫然だとかも違う。切なさ、悲しさ、恐怖。いろんなものが綯い交ぜになって涙すらでなかった。これを茫然っつーんだと言われたら困るけど。

被災者が行き交う道を、取材クルーの腕章をつけた人たちがニヤニヤしながらチンタラ歩いていた。片付け中の被災者に「なにしてるんですか?」と問うた記者がいた。

茨城県民は短気と言われているが、腹を立てない方がおかしいんじゃなかろうか。

 

けれど、常総市はすぐに「忘れられた被災地」になった。テレビは連日、後手後手にまわった市長に対する批判や土手を削ってでのソーラーパネル設置の是非と市長批判、被災ゴミ問題を報道していた。

そりゃ見る側は呆れるだろ。

後手後手対応についてはよくわかる。避難指示は遅かった。

ソーラーについては、鬼怒川は国土交通省の管轄であって市長に最終決定権はないと思う。

日が浅いうちに被災者の傷を抉るような取材が続きびっくりした。ある記者は暗に「ゴミを家に置いたまま暮らせないのか?」ともとれる発言をしていた。9月とはいえ汗ばむ気温が続く中、汚物を巻き込んだ泥水に濡れた畳や木製家具がどうなるか、当事者以外にはわからないのだろうか。

いったいなんなのだと思った被災者はたくさんいた。わたしは知っている。昔、マスコミ関係の客員教授が教えてくれた。

「人がたくさん死んだ災害と」と「人がたいして死ななかった災害」の差なのだそうだ。

 

2017年11月末、先の水害における公的住居の無償提供が終わった。避難先から戻った人は7割だそうだ。3割は、そのまま避難先で暮らすのか、金銭面新築ができずやむを得ず帰宅できないのかわからない。

関連死もあった。全壊ではなかったために修復で終えたお宅の中には、床下の除湿が不充分だったのかカビが生えてしまう家もあるらしい。

 

茨城は地味で知名度が低く、まるで自意識や感情がないもののように扱われがちな県だと思う。

というより、他県の水害であのような報道のされ方を見たことがなく戸惑った。茨城空港の時然り、国民の皆様は茨城をスケープゴートにしたいのではなかろうか。

なぜ災害に踏まれた被災地を蹴り、国にどんな思惑があったにせよ交通の便が悪い地域に空港ができると万々歳だったところに水を差したのか教えてほしい。